『無名の男』

無名の男は整体師である。男は大阪府のとある場所で整体治療院を営んでいる。通信関連の技術者だった彼は30歳を少し越えた頃、自分の人生に生き甲斐と呼べるものを求めて、突如会社を辞めた。

「いや~、ホントにサラリーマンの頃は全然ダメダメでした。毎晩飲みに行ってましたし……それでも、サラリーマン辞めて整体師になろうと決めた時は不安でしたよ。
同期や周りの人達は昨日と同じように前に進みますが、僕は逆に向かって歩き出して、ものになるか分からないけど、僕が出会ったこの整体術の理論と施術は間違いないと感じ、とにかく整体師になろうと決めました。」と彼は言った。
周囲は昨日と同じような生活を続ける。ふとそれに逆行するように立ち止まると、それだけで彼は一匹狼のような心境になる。

私が彼と出会ったのは今から4年以上前のこと。広告会社でデザイナーとして月に300時間以上、パソコンの前に張り付くように仕事をしていた。
元々腰痛持ちの私には仕事を続けていく上での不安要素で、ひどい時には起き上がれない時もあった。騙し騙しやっていくより他ないのか、と仕事や日常生活での不都合も受け入れようと諦めかけていた時、彼と出会った。
彼は、いかにも治療家のようなビジュアルではなかったが、問診は丁寧だった。
それまで出会った治療家の中でも遥かに永い時間丁寧にそして親身になって聞いてくれた。直してあげたいという気持ちが誰よりも感じられた。
しかし彼の施術は試練だった。甘くないのだ。人の成長と同じように、改善していくのには苦痛が伴う。バキバキやるタイプの整体ではなく、痛みの患部と連動する起点のような部分もほぐしながら、総合的に指圧でアプローチしていく。

私が他県に引っ越しても彼の元に通うのには理由がある。自分の身体のメンテナンスを任せられると信頼しているからである。長年苦しめられた腰痛という不安要素を取り除き続けてくれる彼のおかげで、前に進めるのである。
先日彼から嬉しい報告を聞いた。それは人の為にという人生を歩き始めた彼に与えられた、天からのプレゼントのような気がしてならない。
「痛みが和らいだよ、とか仕事で無理が効くようになったよとか言って下さると嬉しい。本当に今、幸せなんです。」と彼は言う。

苦しい日々を抜け出した今となって彼はこう思うかもしれない。いばらの道に踏み出して、いろんな人に足を引っ張られそうになったけれども、とうとう幸運の四葉のクローバーを見つけることができたのだ、と。
明石 海人という詩人がかつてこんな詩を書いた。
『深海に生きる魚族のように、
自らが燃えなければどこにも光はない』
悪くはない詩だ。