文章は才能か?

ユメを叶えるために必要な才能。

文章を書く行為から「才能」についての記事を書きました。

自分には才能がないから夢なんて持っても叶えられないや、と嘆くことなかれ。

まずは文章についての才能云々から誤解を解いていきたい。文章家の大家井上ひさし氏がこんな風に書き残してくれてます、もっと言えば弊ブログの要諦『ユメのナビゲーション』ユメは才能がないと叶えられないの?

才能は努力で身に付かないの?という疑問にお答えしていきたい。まずは文章について。

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文章術の極意は奈辺にありや

井上ひさし著『自家製文章読本』から、書く事ってそもそも人間にとってどういう行為なの?

という本質から考えていける、文章の書き方をさわりだけでもご紹介します。

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前回は壮大な宇宙を題材の記事でしたが、今回は文字や文章について。

http://dream-navi.com/2016/08/08/宇宙はまだはじまったばかり、らしいよ。/

疑問に持ったことはないでしょうか?

人は何の為に文字を書くようになったのか、ということを。

また、優れた文章を書く為に押さえておいた方がいい文章の作法を教えて欲しいというヒト向けの参考記事です。

SNSやブログまたはWeb上で文章を書く機会が増えていると思いますので、そういう方にとって

心に届く様な文章を書く参考になるかもしれません。

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井上氏はこう言っています。

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文章上達の秘訣はただ一つしかない。あるいは、そのただ一つが要諦であって、他はことごとく枝葉末節にすぎない。当然わたしはまづ肝心の一事について論じようとする。とものものしく構へたあとで、秘訣とは何のことはない名文を読むことだと言へば、人は拍子抜けして、馬鹿にするなとつぶやくかもしれない。そんな迂遠な話では困ると嘆く向きもあらう。

だがわたしは大まじめだし、迂遠であろうとなからうと、とにかくこれしか道はないのである。観念するしかない。作文の極意はただ名文に接し名文に親しむこと、これに尽きる。(略)われわれは常に文章を伝統によって学ぶからである。人は好んで才能を云々したがるけれど、個人の才能とは実のところ伝統を学ぶ学び方の才能に他ならない。

ヒトが言語を獲得した瞬間にはじまり、過去から現在を経て未来へと繋がって行く途方もなく長い連鎖こそ伝統であり、わたしたちはそのうちの一環である。ひとつひとつの言葉の由緒をたずねて吟味し、名文をよく読み、それらの言葉の絶妙な組み合せ法や美しい音の響き具合を会得し、その上でなんとかましな文章を綴ろうと努力するとき、わたしたちは奇跡を起こす事ができるかもしれない。その奇跡こそは新たな名文である。新たな名文は古典のなかに迎えられ、次代へと引きつがれてゆくだろう。

すなわち、いま、よい文章を綴る作業は、過去と未来をしっかりと結び合わせる仕事にほかならない。もっといえば文章を綴ることで、わたしたちは歴史に参加するのである、と。

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宇宙に負けず劣らず、人間が文章を書き残すという行為は連綿と続く過去と繋がり、未来へと繋がってゆく

美しくドラマチックな行為だったのですね。

文章を読む・書くことは過去と未来に繋がること

 

さらに井上ひさし氏は続けて、

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たしかにヒトは言葉を書きつけることで、この宇宙での最大の王「時間」と対抗してきた。

芭蕉は五十年で時間に殺されたが、しかしたとえば、周囲がやかましいほど静けはいやますという一瞬の心象を十七音にまとめ、それを書きとめることで、時間に一矢むくいた。閑さや岩にしみ入蝉の声はまだ生きている。時間は今のところ芭蕉を抹殺できないでいるのだ。

芭蕉はほんの一例であって、文学史は、というよりこれまでにヒトが書き記したものすべて、すなわちヒトの記憶の一切はみな同じ構造をもっていると思われる。書庫から鴎外漱石露伴を取り出し彼等の文章にふれるとき、わたしたちはこの三大家が文章に姿をかえてちゃんと生きていることを確認する。

その瞬間に時間は折り畳まれ、ヒトの膝下にひざまずくのである。せいぜい生きても七、八十年のちっぽけな生物ヒトが永遠であありたいと祈願して創り出したものが、言語であり、その言葉を整理して書き残したのが文章であった。わたしたちの読書行為の底には「過去とつながりたい」という願いがある。そして文章を綴ろうとするときには「未来とつながりたい」という想いがあるのである。

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さて、どうでしたでしょうか?

井上氏は

個人の才能とは実のところ伝統を学ぶ学び方の才能に他ならない』と言っていますね。

世の中のお父さん、お母さんがこの言葉を知ったらどうでしょう、少しは希望が持てるのではないでしょうか。これから未来を作るこども達にこそ、そんなことを伝えたいですね。

諦めるまえにまず伝統というものを出来る限り集めてきて、お父さんとお母さんと一緒に伝統学びから始めましょう。とことんそのやり方を繰り返していけば、才能という存在を目の端に掴めるかもしれません。

最後に歴史作家の隆慶一郎のこの言葉で締めくくりましょう。

1人の人間の胸の中には、全人類の記憶が宿っているとはプラトンの美しい言葉である。自分の染色体の中に染み込んだ、古代人の記憶を掘り起こすには、このプラトンの言葉を信ずるしかない。そして己の記憶の中に深く潜り込んでゆくしかないだろう。旅はそのもっとも有力な媒体であると思われた

色々な書物を読み、文章を書くことで自分の中にあるものを掘り起こしていくことが、内に眠る才能と出会う方法なのかもしれませんね。