『夢は親愛なるものだが、同時に恐れるものでもある』

夢を叶えるには、夢を叶えるまで「耐える」ことが重要です。夢を叶えるまでは、長く苦しい日々が当然あります。何かの夢に駆出した頃は苦しい日々の連続です。

耐えるときには、例えばマラソンで走る時に気を紛らわすために唱える「マントラ」のようなものが必要です。マラソンというのは過酷な競技なので、マントラでも唱えないことにはやっていけないから、と言われます。

私にとって耐えると言えば、、、

東京に出て新聞を配っていた頃があります。

1998年。東京に出たのは私が23歳の頃で、甲賀総合科学専門学校野球部でかつてチームメイトだった建山義紀(日ハム~テキサスレンジャーズ)がドラフト逆指名2位、契約金およそ1億円で日本ハムファイターズに入団した年でした。その年同学年の目立った選手は、上原浩治・高橋由伸・川上憲伸・建山義紀で同年代の人達がプロとして成功の階段を昇り始めたことが自分の誇りであり長い間心の支えとなりました。

社会人としての人生を前半戦・中盤戦・後半戦と区切って、前半戦を仮に35歳までとした場合、私のスタートは敗者復活戦からのハンデ戦を戦う所からでした。それに対して、上記の彼らは予選を順当に勝ち進み、シード権まで獲得して、人生の前半戦を優位に進めていることになり、

私と彼らとのコントラストは目に見えてクッキリと分かれていました。

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【夢の第一歩、新聞奨学生としての生活がスタート】

予備校に通いながら新聞奨学生(朝刊夕刊を配りながら学校に通う苦学生)として1年間。私が夢を目指す為に地元愛知県を出て、再び愛知県に戻るまでの苦闘の15年間は、東京板橋区の読売新聞販売所からスタートします。

新聞奨学生の一日の流れをざっと説明します(新聞販売所の寮住まい)

朝3時 起床

■朝刊に折り込みチラシを差し込み、配達用の新聞セットを自分で用意

朝刊配達(2時間半~3時間半)

販売所で朝食(賄い)

学校(大学・専門学校・予備校等)※私の場合は予備校で講義と実技

電車通学で往復2時間超(朝の満員電車も辛い)

夕刊配達の為に14時半頃に学校を中座

15時半に夕刊が届き、配達へ

17時半頃に夕刊配達終了

(集金業務のある販売所はここから2時間程集金に出る)

この時間には賄い夕食が用意されているので、好きな時間に食事

食事休憩を挟んだ後、翌日の朝刊用の折り込みチラシのセッティング

(何十枚という種類のチラシを配り易いように、一枚一枚束にしていく作業で週末は1時間以上かかる)

以上が一日のスケジュールです。休みは週に1度と日曜の午後です。

しかし、予備校生はこれで終わりません。この後シャワーを浴び、

  12時頃まで勉強して、体育大受験の為の筋力トレーニングをして就寝。

  私の場合は2~3時間位しか寝れませんでした。

朝刊配達業務を説明しますと、朝3時から始まり、新聞の中に前日用意した折り込みチラシを挟みます。新聞を配る前の言わば予備的作業ですが、これがなかなか大変で入れるスピードに個人差があり、この作業が遅いとそのまま配達時間が後ろにずれ込みます。大体3時過ぎ頃から新聞を配り、6時頃に戻ってきます。

配達の基本的な手段としては、原付のカブでの配達と自転車での配達との2種類あり、カブと自転車では作業量も疲労度も全然違います。当時中型免許を持っていて、80ccのカブに乗れましたが、販売店の方針で新聞奨学生時代は自転車で配りました。部数は280部位だったと記憶しています。ダッシュで配って2時間半、ゆっくり配ると3時間超といった分量です。

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辛い事はたくさんありましたが、折り込みチラシ量が多くなる週末の新聞一部の厚さ。雨の時、真夏の暑い時、冬の寒い時、冬でも辛いのが凍える雨が手に噛み付いてくる時です。新聞を配っている時は例外無くいつも、10年後20年後のことをイメージしていました。何になるかを決めて、それをどう実現していくのかという、シュミレーションをするのが私のマントラでした。私のマントラは、かつて同じ場所で研鑽を積んだ建山義紀投手のような同学年の選手達と同じ場所に行きたいという夢でした。同じ場所と言っても、プロ野球のトレーニングコーチやトレーナーあるいは、スポーツライターのようなプロスポーツのそばという意味です。

「今はこんな辛い時間だけど、この道のずっと先には明るい未来が待っている。」そう思わないと辛かったし、そうこうしていると何とか一日一日が過ぎていきました。

雨の降っていない早朝は静かで気分が良く、また朝日が昇ってくるのを見ながらのコーヒーは格別なものがありました。(中間地点で新聞の荷を積み直し、小休憩を入れます。その時決まって日経新聞を配る同じような新聞奨学生の女性と顔を合わせます。※『君の名は』のような恋には発展しません。)

すぐには良くならないけど、朝早くから活動している自分は、世の中の誰よりも早く活動を始めていて、なおかつ将来の夢について、イメージトレーニングを毎日している、すぐにはこの生活が良くはならないけれども、不思議といつか叶うような気がしてくる。その瞬間は、ほんの少しだけれども現実の辛さから解放された気分でした。

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【楽しみの1つ、賄いの時間】

新聞を配り終えて新聞販売所に戻ると、食堂には食事が用意されています。どこの販売店でも「飯炊きおばさん」がいて、配達で疲れお腹をすかせた配達員達に賄いを振る舞います。炊きたてのご飯、味噌汁、焼き魚や卵焼き、納豆、のり等々。日によっておかずは違いますが、大体ご飯と味噌汁は付きます。ここではご飯のおかわりが自由で、ご飯のお供に海苔の佃が常備されていて(ご飯ですよ~みたいなやつ)20代前半の私は何杯でも白米が食べられました。今思い出しても、この時ほど朝食が美味しかったと思えたときはありません。

もう一度あの時の美味しい朝食を食べたいと思いますが、おそらく無理でしょう。20代前半、自転車で新聞を配って汗をかき、カロリーを消費し、極限までお腹をすかせて、同じような境遇の仲間達と炊きたてのご飯と味噌汁は格別でした。そして食事の時間は唯一ホッとできる時間でした。表面的には辛いけど、仲間との楽しいひと時があって充実している。と聞こえるかもしれません。

でも、新聞販売店を取り巻く環境はそれほど甘くはありませんでした。

【新聞販売所の影、人間の弱さを知る】

新聞奨学生の中にも色々いて、途中で学校に行かなくなりドロップアウトする者、仲間を集めて部屋で麻雀をしたり、パチンコ屋に入りびたったり、年若い者にとっての東京は誘惑が多いし落とし穴も至る所に存在していました。3月4月はまだ緊張感があるものの、朝・夕の新聞配達に慣れてくると段々勉強するのがキツくなってきて、自分に甘え始める。

同じ新聞販売店で寝泊まりする仲間の中には、大学生、専門学校生、予備校生がいて(さすがに大学生は通っているが)、その3分の1はドロップアウトする。1年2年と学校に通わず、新聞だけの生活になり遊ぶ金欲しさに集金業務を増やし、いつの間にか専業の社員さんになっていってしまう。私には明確な目標がありましたし、体育大進学を目指して体育大専門予備校に通っていましたので、予備校に通うカリキュラムは月~土までぎっちり詰まっていましたし、少数ですが想いを共有する新聞奨学生の同級生達がいました。

「一体何の為に東京に出てきて新聞奨学生になったのか・・・」彼らに対していつも半ば軽蔑するように心の中で質問を繰り返しました。そこには希望はなく、あるのは怠惰な生活と堕落、そこからまともな仕事についてリスタートできるとは到底思えませんでした。

時は西暦1998年、バブルが崩壊したのが1991年、世の中は就職氷河期でした。大学を卒業しても就職が難しい時代に、何の資格も無い新聞販売店上がりの人材を必要としているのは、同じ様な人の嫌がるキツい仕事だけでした。新聞販売店は、若者だけじゃなくむしろ、専業の社員さんは30代~60代の人の方が多く、大抵が他の仕事から流れ流れてたどり着いた曰く付きの人達でした。社員の中には元証券マン、元商社マン、元喧嘩を生業としていた人、サラリーマンからドロップアウト、ギャンブルや女性で身を滅ぼした人、等々がいました。

その頃はバブル崩壊してから長く続く不況で、失業し転職を繰り返し最後にたどり着くのが、新聞販売店と警備員、日雇い労働でした。20代前半の私は、夢を一途に目指す純粋な(自分で言うものじゃないけど・・)若者で、そんな掃き溜めのような場所で、世の中や人生の厳しさ空しさを目の当たりにしていました。私にはまだ若さと夢という希望だけがあったので、自分は決してそうはならないと高をくくっていたものの、もし大きな怪我でもしていたら、どうなっていたか分かりません。

今でも忘れられない人達がいました。

長く新聞販売店の寮に(寮と言っても木造立ての古い建物の6畳一間で販売所の2階)住み続ける二人がいました。1人は長く伸ばした髪の毛が腰まであるような不潔な23歳(同じ歳)で部屋は雑誌と新聞で要塞みたいになっていて人が一人通れるぐらいのスペースしかない部屋に住み、もう1人は、40代前半でいつも汗をかいていて、腋臭がきつい小太りの男でした。仮にその長髪男を(仮名メシア)とし40代の小太りを(仮名エビスさん)とする。

メシアは同じ歳でしたが、何の目的もなくだらだらと日々を過ごしていました。うわさでは専門学校をドロップアウトして、そのままの流れで専業になった社員でした。彼の勤務態度は怠惰で遅くまでゲームや麻雀をしているので、いつも前歯の抜けた主任が(どうやって抜けてどうやって飯くうの?)起こしに行き、いつも怒られていました。でも不思議と憎めない性格なのか、その主任とは何かと一緒に行動をしていたみたいでした。メシアは良く深夜になってもゲームをしていて、自称甲子園出の「ひげメガネ」大学6年生(ほぼ行ってないので専業、その後集金の金を持ち逃げして逃亡。後に田舎からお母さんがお金を持って謝罪に来た!!)こちらは勉強していて、耳栓が意味ないくらいに騒ぐので何度も注意に行っていました。行くたびにメシアは「ああ、ごめん」といいつつすぐにまたうるさくなるし、ひげメガネも「これぐらいいいだろ!共同生活なんだから」という意味不明の発言をしてくる始末でした。私はこの二人が大嫌いでした。今だったら間違いなくチョークスリーパーで締め落としています。

そんなこんなで、集中して勉強したい私とただ生活するだけで人に迷惑をかける人間達との攻防をしながら、厳しい夏が過ぎた頃、日曜の昼過ぎに一階でざわざわと騒がしい声が聞こえました。

……エビスが飛んだ……

小太りの汗かき男エビスさんが金を持ってどこかに逃げてしまいました。純粋な(もういい!)私は衝撃を受けました。その後、ひげメガネも数日後飛ぶのですがそれはまた別の話です。主任や課長がエビスさんの部屋から金目のものを取り出そうとしていましたが、当然のことながら金目のものはなく、ゴミ屋敷と化したエビスの8畳の部屋は中心部だけ人が入るためにかき分けられており、(新聞販売店住み)40独身男の悲しい人生がそこにはありありと存在していました。壁にはグラビアアイドルの水着のポスターが貼られ、何回も見返したであろうアダルトビデオがパッケージと共に散乱していて、良さそうなものだけササッと持って2階に上がったメシアを目の端で捉えつつ、人生の悲哀を感じずにはいられませんでした。悲しくて悲しくてとてもやりきれませんでした。

東京の板橋区の片隅で、最後ゴミ屋敷にたどり着いた将来のない40男のエビスさん、一緒に飯を食べるときはいつも配達が遅くて最後にテーブルの端っこに座り、みんなの話に聞き耳をたてて、歯抜けの笑顔が悲しかったエビスさん。いつも汗をかいた髪の毛がべたべたに張り付いていて、腋臭がキツかったエビスさん。

私はしばらく呆然と佇み、起こった出来事と汚いゴミ部屋、誰にも相談出来ずに(きっと誰も助けられない)みんなに物色され恥も外聞もなくただ逃げたエビスの心境を思うと悲しさを通り超えてただ空しかった。エビスがなぜ逃げたのか。何があったのか。逃げたところで状況が良くなることは考えにくかった。

私はその時思ったものでした。この出来事を忘れまいと。いつかこの事を書き記そうと。。エビス(仮名)の年齢に近づいた今の私なら、理解できないまでもエビスの気持ちは分かるような気がします。

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歌手のYUIが歌った『TOKYO』という曲の中にある東京の怖さを垣間みた思いです。彼女の想いを吐き出すような歌声はいつもノスタルジックで切ない気分にさせますが、その分彼女の抱える苦しみや痛みが滲んでいるような気がします。余計なお世話ですが、信頼できる大人に支えてもらいながら、嫌なことは「Good-bye days」と徐々に忘れていって歌を歌うこと=生きること、のような人生を「Hello」してもらえることを望みます。※東京って怖い街ですね。刺激的ではありますけど。

「つよがりは いつだって 夢に続いてる

〈中略〉

 窓の外に続いてる この町は

 かわらないでと願った

〈中略〉

 古いギターをアタシにくれたひと 

 東京は怖いって言ってた

 答えを探すのはもうやめた

 間違いだらけでいい」

YUI『TOKYO』より引用

 

【カキフライ弁当の罠、受験勉強の終焉】

その後私は、睡眠時間1日2時間という生活を続け、受験勉強と体育大受験の為の実技の習得に励みました。国語はいつも偏差値70オーバーでしたので、英語が50に上がったころ模試の合格判定はAから下がることはなくなり、もう1年英語を頑張ればもっと上の大学の体育学部も狙えると言われるような状況でした。

入試を2日後に控えた日に、ある弁当屋のカキフライを食べて発熱をしてしまいました。食中毒にあってしまったようです。すぐに病院で点滴を打ちましたが、精神的ダメージも大きく、熱は下がったようでしたが、体力は戻らずに実技試験で失敗することになります。

試験が終わり不合格の通知が来たときには、左胸の辺りにしこりができていて、急激なストレスがかかったせいで体に変調が起きていました。がんのような異常はみられませんでしたが、2年かけた受験戦争が敗北のまま終了したことと体と精神的なダメージをかかえ、今思えば20代前半の大切な時間を費やした割の結果に繋がらない不毛さと希望を無くした自分に空しさだけが重くのしかかってきました。
(※ゆめなび:夢ナビゲーターの私が夢を目指すことのデメリットを初めて感じた時です。東京は怖いです。)

【夢を目指したあの日々・そしてこれから】

大学受験に失敗した後も、社会人としての人生予選大会で小さく勝ったり負けたりの日々が続きます。スポーツトレーニングコーチからスポーツライターへ、そしてグラフィックデザイナーへと目指す夢が変化して行きましたが、文章修行をしている最中に勤めていた大手居酒屋チェーン店では持ち前の体力と人当たりの良さがウケ、店長として収入は増えていきました。その時稼いだお金は(お酒・本・専門学校授業料・PC代)に変わりました。

その期間に得たものは、今でも根底に残る自信です。この先何かで失敗したとしても、自分は大切な家族を守っていけるという自信です。

職を一時的になくしても、すぐに私は新聞を配り、あるいは居酒屋でビールジョッキを持って走り、調理鍋を振ります。なにをしても食っていける。これは何物にも代え難く、強い心の支えと楽観的な思考を生みます。私にとっての東京は、いや社会人の前半戦を戦った東京生活は何かを生み出す期間ではありませんでした。

作家の五木寛之さんは何かの本で書いています。

「青春期はマスターベーション(自己満足)に象徴される不毛な時期で、何かを達成できるような時期ではない。」と。

私の前半戦は、大きな夢を叶える為に、時間とお金という資源を投資し、経験と知識と知恵とスキルを獲得する期間でした。

今は中盤戦を戦っています。

食物で言えば、前半戦で植えた種が芽を出し、中盤戦で大きく育て、その果実を収穫しに行きます。

「昼の光に、夜の闇の深さが分るものか。」

とニーチェは語っています。

年齢に関係なく、夜の闇の深さを知らず表面的に昼の光を語る人間がどれだけ多いことか。

※非常に長い、「夢を追って東京へ」のコラムをお読み頂きありがとうございます。

 ここまで読んでくれたのは、東京で大学受験を控える学生さんですかね?社会人も厳しいですが、大学受験もまた厳しい戦いですよね。試験に挑む中で自分との戦いもあります。大学に合格したあかつきには、しっかりとした学問を身につけて、社会で活躍することを祈っております。