『父の祈りを』

父とはいつもどこかすれ違っていた。子供の好みの分からない、父親だった。

そして思い出したように父親としての愛情を一方的に、自分のペースで、局所的に表現する。

その局所的豪雨のような愛情表現は、思い出したように兄と弟それぞれに照射されることになる。

752ae72a6c26fb15c5608e882bb7f4db_s

「Re-Born」生まれ変わるように

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

病院を出て●●●駅までの道のりをこれまでの地下鉄利用ではなく、手術後ということもありタクシーで移動することにした。出口を出ると手前に向かってカタカナの「ノの字」を書くようにタクシーが並んで停まっていて、その先頭にトヨタクラウンアスリートが停まっていた。何となくその巡り合わせにこれからの幸運を感じた。クラウンの後ろにつながるタクシーは一般的なタクシー用車種、トヨタコンフォート。

「よし、どうせならクラウンのタクシーでゆったりとしたシートと豪華な内装でリッチな気分で●●●駅まで送ってもらおう」そうか。クラウンアスリートはRe-Born(生まれかわる)というキャンペーンで紹介されていたな。。よし、Re-Born(生まれかわる)とは縁起がいい。

Re-born というトヨタ自動車のキャンペーンでクラウンの新シリーズを大々的に売り出したことがあった。トヨタクラウンのおなじみのエンブレムが大きくゴツくなり、車のデザインも随分変わっていた。

駅に向かって走り出したタクシーの中、流れる景色を見ていると、

「なかなか大変な手術だったね。」

母が言った。

「そうだね……。」

母は、予想を遥かに超えた手術の成果に信じられないような、

これまでの経緯をうまく飲み込めないでいるような、そんな感じがしていた。

そこで私は、

「病院はメンテナンスするところ。生きるために悪いところを直す場所。生きるために手術した。これからまた人生が始まる。病気を直し、また生きるだけだ。」

短いセンテンスで、大事なことを繰り返すように、言葉を積み重ねた。助手席にいる父に伝わっているだろうか。。

これまでの経緯はいい、大事なのはいつも今とこれからのこと。これからどうやって、何を考えて日々を生きていくか、それが大事なのだ。

タクシーの運転手にも聞こえていたはずで、細かいお釣りはまけてくれた。

「お大事に」きっと大きな手術を受けた後の患者とその家族間の会話で、前向きな会話を聞いたことが運転手さんの心のどこかに触れたのだろうと察することができた。

「ありがとう」

バタム、とドアを閉める。

「残りの時間」

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

数ヶ月前、父の病気が発覚した。病名は詳しくは書かない。現在も闘病中だからというのもあるが、とにかく手術を必要とする重篤な病気とだけ記すことにする。

私は、割と冷静に父の生と死に向いあっていたように思う。私は特に力むことなく、与えられた条件の中で父の残り時間を延ばすことを考えていた。

できることは限られている、しかし与えられた環境の中でベストを尽くすこと、たくさんの情報を集め、理解し、周りを巻き込み、ポジティブでいることが最善策だと思う。

病院の中では医者という存在が頼みの綱であり、提携病院の質や出会った医者の力量や意欲や意志によって患者の容体に関わってくると思っている。医者であっても人間で、体調や人の好き嫌いや患者の態度や生きる意志みたいなものがわずかばかり関係しないとも言えない。

ビジネスの現場だって、担当する人のテンションや他の仕事との力の入れ具合やその案件によって集中力が違うことがあるからだ。

たとえ短い時間となっても、その期間を無駄にせず輝くような日々を追い求めて欲しいと思う。

父の命があと数年。

年齢的にはおかしくはないが、自分の中ではまだ元気でずっと棚上げしていた問題が目の前に突きつけられてきたような気がした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

私自身も帰路に立っていた。独立して半年、思っていたような独立後の生活ではなかった。当たり前であるが、現実は厳しかった。仕事は簡単には取れない。定期的な収入がない。不安に押しつぶされそうな日々が続いた。そんな時に父の病気が発覚した。

父が病気と向き合えるようにサポートし、手術を受け、生還した。悪いところを取って軽くなった体と心で残りの人生を再び生きることになる。父の回復と同じ軌跡を辿って、私の仕事も増えてきた。

仕事がないからやることもない。営業活動やメール送付、情報収集はやるけど、それだけでは時間が余る。遊びに行くほどのお金の余裕もない。せっかくだから体を鍛えることにした。腹筋と背筋と腕立て伏せ、スクワット。体の中心を支える基本的な補強運動を積み重ねた。

ほどなくしてトレーニングの効果が現れ、力が篭るようになってきた。仕事をしていても本を読んでいても粘れるようになってきた。体の芯がしっかりとブレない軸のように支えていた。自然と姿勢が良くなり、顎を引き態度が堂々としてくる。それに呼応して自信がみなぎってくるような気がした。

父が死と人生と向き合っているその最中に自分も父の背中を目の端に捉えて、自分の人生と向き合い、向かっていく気持ちが芽生えてきた。

ここで終わるんじゃない、ここから始まるんだ。

ここで終わるんじゃない、ここから始まるんだ。何度も心の中で、何度も。

「死」はきっと、僕らの身近に存在する。体の調子が悪かったり、部分的に内臓が痛くなったりする時以外はそこまで死について考えることはない。

でも確実に人生の残り時間を消費している。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

父の病気の検査が続き、その結果が分かるまでの日々は、ふわふわとしていて、掴み所がなく、さらに言えば実感のないような日々が続いた。大学入試の結果を待つような、どこか頼りなげで、人生の舵取りを他人に任せているような所在ない感じが漂っていた。

どうか、もう少し生きていて欲しい。それも闘病で辛い日々で延命するのではなく、生活の質を若干落とすぐらいの日々が、後5年ぐらいは続いて欲しい。そんな風に何者かに祈るような気持ちで日々を過ごしていた。

他の人に比べれば、父との間に特別な思いはない。私が子供の頃から一定の距離間があって、成人しても、30歳を超えても父のことが好きな方ではなかった。

それは嫌いというのとは違って、苦手だった。ただ何となく。

そして、若い時は激情型で、湯沸かし器のように感情がヒートアップし誰彼ともなくキレる姿は子供ながらに嫌いで苦手だった。

私も大人になり、社会人として10年も過ぎると、同時に父も老いてきて、昔の勢いが衰えてくるようになる。その反面に自分が父の全盛期の歳に近づいてくると、父のような激情型が不意に立ち現れてくるようになった。

それに気づいた時はぞっとした。それと同時に、少しだけ嬉しくもあった。不思議な感情だった。

少しだけ、父の気持ちがわかるようになってきた。その当時は、生真面目で趣味が少なく、友達も少なく、ストレスを発散する効果的な発散方法を持たない父の上手くいかなくなって来た仕事の不安と、家族を支える責任が一度に降りかかる家長としてのプレッシャーが少しだけ想像できた。

【父との思い出の日々】

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

91f6b37cf774f8e0c33dfa1e36475a68_s

子供の頃、小学校の3、4年生ぐらいの時だったと思う。

父はよく私を釣りに連れて行った。連れて行ってくれたと書かないのは、私は特に嬉しくなかったからである。嬉しくなかった以上に面倒だった。その頃の父は私の前では無口だった。私もそれほどしゃべる少年ではなかったから余計に会話はほとんどなかった。

海釣りだったと思う。防波堤のようなテトラポットの辺りに場所を取り、朝に着いて1日竿を立て、糸を垂らす。ほとんど釣果はなかった。そしてほとんどしゃべらなかった。私はその退屈が嫌いで、いつもビー玉やキャラクター消しゴムを持って行き、一人遊びにごちた。

一日中会話もせず、一人遊びをしていた。そのそばで父は無言で糸を垂らす。今となってはその時間がなんだったのだろうと思う。車の中でもほとんど喋らないから、ひょっとしてこの人は父親の仮面をかぶった他人なのではないだろうか?

という子供ながらそんな空想が頭をよぎった。この人が他人で、誘拐されていたらどうだろう、と。

「弁当食うか?」

「う・うん・・・」どこかよそよそしく、ためらう感じで。

父にもその距離感はずっと伝わっていただろうと思う。中学生の時は、特に父との思い出はない。リビングのソファーで寝そべっている姿、腕枕で中日のナイターを見ながら文句を言っている姿しか思い浮かばない。

高校生に上がる時、自分で選ぶことを楽しみにしていた硬式用のグラブを勝手に買ってきて、それが望んだものとは懸け離れた軟式用のように薄い皮に聞いたこともないようなメーカーのグラブだった。エンブレムはDH、ダークホース(ウィキペディアでは予想外の活躍をしてばん狂わせを起こす馬とある。)野球でDHだと、打撃専門の打者という意味になる。

高校の学生服でもそうだった。その時私は瘦せ型であっても身長は178cmあり、いくら伸びても後2,3センチだった。それなのに「高校ではもっと成長するだろう。でかいサイズ買っとけ」とばかりに2サイズぐらい大きな学生服を強引に目の前で購入した。私は逆らえなかった。

入学式の時に撮ったクラス写真では、一人だけ首回りにザックりスペースの空いた明らかに大きいサイズで失敗したビジュアルが存在した。私の高校生活はそんな風にどこか、身の丈に合わないものに無理に合わせようとするかのような日々だったように思う。父とはいつもどこかすれ違っていた。子供の好みの分からない、父親だった。

高校一年の途中から、卒業した先輩から学ランをもらって、それを着るようになった。父の買ってくれた学ランはタンスの中に押し込んでそれ以来二度と着ることはなかった。

父はそれについて何も言わなかったが、その時はどう思っていたのだろうか。。

憎まれ口をたたく。余計な一言を言う。何かの話になると、必ず金の話になる。そういう面が嫌いだった。それは今も変わらない。

【父が老いてからの日々、そしてこれからの日々】

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

fe0083037d9a1bea77cf9f2523384a54_s

この数年は、父も老い、人並みに会話ができるようになった。元来は頭の良い人であるが、私の話したい内容には疎かった。

子供の頃、大人になってからの父との関係を振り返ると父のことは最後まで好きになることはないだろうと思う。一定間隔の距離間は保ったまま、それは続く。

それでもなお、父に私が仕事で活躍する姿は見せたいと思っている。

プライベートで幸せな家族を作っていく姿も見せたいと思っている。

この先も父の残りの人生にはできるだけのサポートをしたいと思っている。

父の残り時間の間に、父の中で好きな箇所を一つづつ見つけていければと思うことがある。

不器用な父が日々仏壇の前で祈るとき、何を祈っているのだろうか。

父の祈りの中には家族や息子への愛情が込められている、そんなことを想像してみるのだ。

かつて私にとっての祖父、父にとっての父親が亡くなり火葬される時に手を振った父の姿を思い出す。

父の祈りを、生きる力に。

最後に父に、そして母に感謝することがある。

決して裕福ではなかったが、私に厳しい世の中をサバイブできる人並み外れた体力と精神力、そして今の仕事に繋がるわずかな才能を与えてくれたこと。

そして幼少時代に通わせてくれた絵画教室やエレクトーンや書道教室やそろばんやスイミング教室や大量の絵本を与えてくれたこと。

そして何より、大器晩成型、待機晩年型である途方もなくのんびりした私の夢を、半ば呆れながらも黙って応援してくれていること。

もう少し先の小さな成功と小さな幸せを獲得した姿を見られるように健康で生きていてくれること。

それら全てにおいて、である。