ランナー堀内規生との再会:走る先に目指すもの・・・
リオ・パラリンピックの視覚障害者マラソン
銀メダル道下美里さんの伴走者。堀内規生との再会
熱病にかかったように、彼は今も変わらずに走り続けていた。
36歳になった今も彼は走っている。走るというのは比喩ではなく、実際に走っていた。
2017年7月の時点で、彼はリオ・パラリンピックの視覚障害者マラソンの伴走者として、道下美里さんの銀メダル獲得に携わったアスリートだった。
数ヶ月前、友人の堀内規生からSNSを経由して10数年ぶりに連絡があった。久方ぶりのメッセージにはこんなことが書かれていた。
「視覚障害者マラソンの道下さんの伴走者を務めて、リオ・パラリンピックで銀メダルをとったんです」
「!!!!」
◆堀内規生さん紹介ブログ(伴走者についてと堀内さんの紹介記事)
http://aki30tmc.seesaa.net/article/441894555.html
◆道下美里さん「チーム道下で獲った銀メダル」
リオ・パラリンピック視覚障害マラソン。日本放送「10時のグッドストーリー」より
http://www.1242.com/lf/articles/29954/?cat=life&feat=goodstory
予備校時代に親しくなった堀内が10数年を経て、メッセージを送ってきた。彼にとっては一つの達成があったのだと思った。しかし、メッセージの内容を冷静に見てみると、十全に満足している風ではないことが感じられた。彼はパラリンピックの伴走者としてメダルを獲得した。しかし、思ったほど彼の日常には劇的な変化は訪れなかったようだ。それがパラリンピックだからなのか、伴走者だからなのかは分からない。ただ、一つの偉業を成し遂げた彼の日常の充実感は、リオを経てもなお、彼の生活を劇的に変えてくれるエポックメイキングにはならなかった。
彼はこう言った、「趣味のマラソンがこうじて、リオのパラリンピックでメダルを取ったんです。でも、生活の糧である仕事に対しての今後の夢が今ひとつぼやっとしているんです。」と。僕は仕事の予定をやりくりして、名古屋から博多に向かう新幹線に乗った。忙しい最中時間と距離を超えて、彼に会うのにはそれなりの背景がある。
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彼と出会ったのは、新聞奨学生制度を利用して体育大学進学予備校へ通っている時だった。
今から15年以上前のことだ。
僕は20代の前半に、東京で新聞を配りながら奨学金をもらい予備校に通っていた。堀内とはクラスが違ったが、何かのきっかけで話すようになり、不思議とウマがあった。堀内は根が明るく分け隔てなく接するタイプで、根暗で他者と距離を置いてしまう僕との距離感を瞬時に埋めてくれた。それからの付き合いになる。
新聞奨学生をしながら予備校に通う行為は、ささやかな「夢」を叶える為に、ある意味ではリスクを負って受験勉強に時間を投資する行為だ。その時はリスクなんてことを考えずに心の決めたままに突き進んでいた。時間は無限にあるかのごとく、自分の可能性に微塵も疑問を持たずに飛び出す若さがあった。
新聞奨学生を経て、日本体育大学に進学した堀内はスポーツトレーナーになるという夢を抱いた。
僕はその夢を応援した。僕は一年間の浪人生活を送っても志望の大学に受からなかったことを運命と割り切って、もともと興味のあったスポーツライターを目指し始めた。自分で選んだこととは言え、大学生活を謳歌しているかに見える堀内のことが眩しく見えた。実際はそうではなかったらしいけれども、だんだんと堀内と住む世界が変わってきて、疎遠になりそれから15年間全く会わなくなった。
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『私は二十歳だった。それが人生の中で一番美しい年齢だなどと誰にも言わせない。』という文章。
堀内と一緒に過ごした時期は彼が19歳から21歳ぐらいの時期だった。僕からすると、彼の人生はこれからどんな夢を描いても叶えていけるようなキラキラ輝いている風に見えた。
彼だけじゃない、彼の大学の同級生や先輩・後輩、そのどれもがこれからの自分の人生を選び取っていける状況にいるように見えた。それは当事者でない僕の勝手な思い込みであって、就職氷河期の彼らにとっても大学生になったからといって、人生が保証される訳でもなく、むしろ卒業後の人生に悲観しているからこそ、大学生活ぐらいは自由に楽しみたいと思っていたのかもしれない。
二十歳前後の彼らを思い出すと下記の文章を引き合いに出したくなる。
「私は二十歳だった。それが人生の中で一番美しい年齢だなどと誰にも言わせない。」
この文章は、ポール・ニザンの『アデン・アラビア』第一章の第一行である。1966年に発刊されたこの本は、団塊世代の人達の中で不滅の本と言われているらしい。この1行は出会い頭の事故のような衝撃があって、その衝撃があまりに強くてこの言葉の勢いにみんな飲まれてしまい、その世代の人達は熱病のようにこの言葉を繰り返すようになってしまったらしいのだ。
その一行の後はこう続く。
「一歩足を踏み外せば一切が若者をダメにしてしまうのだ。恋愛も思想も、家族を失うことも、大人たちの仲間に入ることも、世の中で己がどんな役割を果たしているのかを知るのは辛いことだ。」
何の特技も学歴も人脈もコネもないその頃の僕が、大学生の彼らを「キラキラ輝いた存在」と見るのもあながち間違ってはいないはずだ。先の引用文である「人生の中で一番美しい年齢だなどと誰にも言わせない」にはきっと、こんな意味を見出していけるのではないかと思う。ある種の諦めと、それでもなお美しい人生の今を作り出すことに挑むことにこそ価値がある、と。
そして、
アーネスト・ヘミングウェイはこう書いた
「世界は美しい。戦う価値はある。」と。
僕にとっては、それからの将来を考えると不安しかなかった。その拭いきれない不安を少しでも忘れるために、人一倍働いた。寝る間を惜しんで本を読み、文章を書いた。
1990年代の後期、バブル崩壊後の就職氷河期に大学生の彼らが、苦しい就職活動と入社後の冷遇に甘んじる、社会人生活を過ごすことになるとはその頃思ってもいなかっただろう。15年以上経ってみて、その頃の僕が進むはずであった、人生を生きてきた仲間との再会にはコントラストを感じるとともにどんな人生を生きてきたかという興味があった。そしてなぜ走ることになったのか、ということも。
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15年ぶりの再会。再会で見えてきたもの
博多駅前で夜19時50分に待ち合わせた。初めて降りた博多駅周辺は数ヶ月前の地盤沈下や大雨の災害の影響も表面的には感じさせずにぎやかだった。駅前の広場では、ビアホールのような感じでハイボールを飲めるイベントが設置されていて会社帰りのサラリーマン達が楽しげにすごしていた。
少し待って、僕を見つけた堀内がランニングするような格好でリュックを背負い走り寄ってきた。36歳でも日々鍛えているだけあって、 体は絞り込まれている。
再会の挨拶もそこそこに堀内が予約してくれた水炊きのお店に入った。彼と僕との再会の間に15年の月日が流れていたことをお互いの 老けた顔を除けば、感じることのない時間だった。
福岡の地鶏を中心にした酒の肴でお酒を酌み交わす。思い返してみても一緒に酒を飲んだことはなかった気がする。不思議と違和感がなかった。15年経っているのに毎年会っているような自然な感じがした。いつかまた会うような気がするとずっと思ってきたからかもしれない。ただし、僕らが会うとすればお互いに何かで成功している時だと思っていた。
僕はまだ成功と言える状態ではないもののお互いに夢を叶えて必死でいることは共通していたから やっとその時が来たと思った。それぐらい僕たちが出会った20代前半のあの頃は夢とか将来に対して 真剣かつ不安で一生懸命なタイミングだった。お互いに真面目で努力家、怠けていたら笑われてしまうような相手と思っていたのかもしれない。
酒が進むとこの15年にあった色々な話が展開されていった。堀内が大学を出てからのこと。就職先での経験話。スポーツとの関わり。プライベートなこと。
僕の方も色々話した。堀内と合わなくなってから、居酒屋で働きながらライター活動とクリエイティブの活躍の幅を広げるためにグラフィックデザイナーを目指した時期のこと。それが思うように行かずに3年もの間アルバイトをしながらデザインの勉強と就職活動を続けたこと。やっと就職できた会社が超ブラック企業で、命がけでデザインスキルを身につけたことなどを。
お互いのこれまでの話が一通り終わり、空いていた15年間が埋まってきたところで僕の聞きたかった「なぜ走るようになったのか?」「そして今後も東京パラリンピックを目指すのか?」 の質問をしてみた。
ーーーーーなぜ走るようになったのか?
堀内 会社員になってから太ってしまい減量目的で趣味で走るようになったんです。その趣味がこうじて
リレーマラソンに挑戦したり、 フルマラソンに挑戦するうちに、記録も伸びてきたから・・・。
もともと伴走者になってパラリンピックを目指そうとしていた訳じゃなく、ご縁というか、
走り続けてのめり込んでいくうちに伴走者っていうダブルスみたいなマラソンもいいなって。
ーーーーー大学時代にスポーツトレーナーを目指していて、その専門的な知識や技術、
アスリートのサポート が好きというのもやっぱり関係しているの?
堀内 そこまで考えてやっていないですけど、結構見ている以上に視覚障害マラソンの伴走者は
心理的ストレスもかかるし大変なんですけど、そういうのあんまり感じないタイプみたいなんで、いいかな、と。
でも、練習や合宿などで一緒に過ごし心の変化や体の変化などにアドバイスすることもあるので結果的には
学生時代の経験は生きてるかな?って思います。
チーム道下として一緒に目的を目指すというのに魅力を感じていたので、力になれればいいと思って。
ーーーー2020年には東京オリンピック、パラリンピックがあるけど、それを目指すの?
堀内 うーん。それは分かりません。年齢的なこともあるし、状況的なものもある。
走ることは続けますけどね。。でもやはり金メダルほしいです。
(2017年の夏時点、堀内さんの中ではまだまだ固まっていないようでした。2020年までは3年ありますし、 前回のリオ・パラリンピックの経験もありますのでトレーニングに費やす時間もその分プライベートの時間を削ることになると思いますので悩むところではないでしょうか。また、道下さんが前回と違って企業に属しているという状況の違いもあるかと思います。説明追記)
話も終わり、水炊き屋を出た。7月終わりの福岡は歩くだけで額が汗ばんできた。ぬるい風が通り抜け、気だるい感じで駅に向かって二人で歩いた。
お互い20代前半から時間が経過し、アラフォーになっていた。でも僕と堀内の間に流れる時間は昔と変わらなかった。
二人とも目指すものや置かれた状況は違っても、目標に向かって挑むところは一緒だった。昔と何ら変わっていなかった。
「また会おう」と言って別れた。
僕にも彼にも物語は続いているのだと思った。不安以上に期待があった。それは言い換えると青春といえるのかもしれない・・・。
彼はいまだに熱病にかかってしまっているのではないか、そう思った。彼に会い、酒を酌み交わしながら話してみると、当たり前のことがわかった。それは、なんのことはない。彼と同じようにどうやら自分も熱病にかかってしまっていたらしいのだ。
誰かがこんなことを言った、
「人は青春時代の救済に一生を費やす」と。
僕も、彼も、きっとこの文章を読んでいるあなただって、多かれ少なかれ
青春時代の救済にせっせと励んでいるのだ。
だから、と思う。
この先もかれは走り続け、僕も走り続けるだろう、と。
※新聞奨学生時代の話、詳しくは⬇︎
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