『上京物語』前半
『上京物語』前半 〜ベースボール・オブ・ドリーム (続編)
大きくなったな・・・というのが率直な感想だった。
前回のブログ「ベースボール・オブ・ドリーム」から3年ほど経っている。
(イチロー記念館に甥っ子達と行った時の話)
(少年Yutaと共に関西での強豪野球チーム「神戸リトル・シニア」に見学・練習に行った時の話)
その3年の間に甥っ子のYutaは少年野球のBoyから野球選手へと着実に成長していたのだ。
2019年Yutaが15歳を迎える4月に、私は東京御茶ノ水にある「ミズノショップ」にいた。
かねてよりYutaの依頼を受ける形でYutaの父(私の兄)からグラブをせがまれていた。
兄は、
「高校野球へ進んだ時に使うグラブだ」と言った。
「どんなグラブ?」
「ミズノプロ・・・オーダーで」
「オーダーで⁈」
私も高校球児だったからいくらぐらいかはわかっていた。
私自身も高校2年の冬に、貯めていたお金でスラッガーの投手用グラブ(プロモデル)を購入した。
なかなかの金額だった。
その頃の自分の全てを注ぎ込んだ想いの詰まったグラブ、寝る時も脇に抱えて、とはいけないけれど
型をつけるために布と紐で包んで布団の下にということはやった。
野球少年にとって高校で使うグラブは特別なものなのだ。
一言であえて言えば「夢そのものがそのグラブには詰まっている」そんな風に言えるかもしれない。
嬉しくて、誇らしくて、これから始まる野球の物語がそのグラブの向こうには存在する。
期待と不安が入り混じり、ドラマの主人公のように感じられる野球人としてのドラマが待っている。
以前からなんどもシミュレーションしていたという。緊張しながらも真剣に大人に伝える。
グラブ型のソファー。手が込んでる。
1日でも早くグラブを買って欲しい。一刻でも早く。そんな気持ちはすごく伝わってきた。
欲しい欲しい欲しい、グラブグラブグラブ。
Yutaの頭の中は野球のことでいっぱいだった。
おもちゃのボールでも満足にキャッチボールできなかった頃の彼を思い出すと
野球に一生懸命打ち込む甥っ子の姿は実に微笑ましく感じた。
私自身も野球に夢中だった高校生のあの頃、
その気持ちを共有できるだけにYutaの頑張りは誇らしく、
さらに私の想いも乗せてさらなる高みへと突き進んで欲しいと思う。
兄弟で記念写真。いい思い出だ。
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ノスタルジックな平成の最初、あの頃のこと
あの頃とは私が15歳、高校に進学し硬式野球部に入った最初の夏だった。
あの頃は、なりたい自分やありたい自分との差異に苦しみ、
他者を受け入れたり受け入れられたりすることに悩み、野球と本に逃げ込んでいた真っ最中だった。
硬式野球部に所属し「甲子園を目指す」や「将来はプロ野球選手に」なんて、身近な人には言ってたが
一体どこまで本気だったのか?自分自身が一番分かっていたのかもしれない。
(どう転んでもそんな風にはなれない)(自分の才能もそうだし、環境もそう)そう言ってみるほどに
自分が生きていること自体に実感がなかった。
将来を想像することが怖かった。
野球をやっている時だけは、野球で先の道を目指している時だけは将来の不安から解放された。
本当に野球が何よりも好きだったのか?本当に生涯を通して野球がつづけたかったのか。。。
振り返ってみればはなはだ怪しい動機だった。
さらに言えば嫌な将来を考えなくてもいいように野球にすがっていたのかもしれない。
将来のことを考えると不安で不安で仕方なかった。
その頃の私はとても社会生活に適応していけるとは微塵も思っていなかった。
(20歳の時に一度就職したが、職業人として本格的に就職が決まったのは31歳の時だった。
だから落ちこぼれも落ちこぼれで、31歳でデザイナーとして正社員になれたのは今でも奇跡だと思っている。)
15歳の夏、見せかけや理屈ばかりは立派で全く野球の実力が伴わない私は
先輩や同期のチームメイトとうまくやれず、チームの中で浮き始めていた。
こんなはずじゃなかった、こんなはずじゃ。。
自分が渇望していた高校野球生活とは随分かけ離れていた。
何かが欲しい、何か自分の指針となるような、支柱となるような、
たった一人になっても努力をつづけられるような確かなものを。
3歳年上の兄が、大学受験のために新聞奨学生制度を使っての予備校通いのため
横浜に引っ越して行った。体育大学を目指すと言った。
その同じ寮の仲間が元高校球児で、かなりの選手だったという話だった。その人が語る
野球理論が革新的だから、一度横浜まで聞きに来いというようなことだったと思う。
その人の名は「ナベさん」兄よりも3歳ほど年上の人だと言う。
都会で暮らす兄の暮らしぶりや奨学生と言っても労働者でもあるので、
どんな感じなのかを知るためにも親に無理を言って行かせてもらった。
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兄に会いに横浜へ上京
横浜たまプラーザ駅で降車した。
兄が新聞配達の夕刊を配った後に迎えに来る予定だった。
兄は新聞配達用のカブ(ミッション型のバイク)に乗って現れた。
半年ぶりの兄は随分逞しくなって見えた。どこか都会に馴染み始めているようにも見えた。
カブの荷台に乗り(※中型免許ないと本当はいけないよ)始めての横浜を二人で走った。
いい感じのスピードに乗ってカーブを曲がる。
夕暮れの風が気持ち良かった。
都会に一人旅に来た高揚感があった。
兄の暮らす新聞販売店の寮は綺麗なマンションだった。3LDKの部屋を3人で住んでいた。
その頃はまだまだ新聞業界も景気が良く、人手不足もあって学生を奨学生として受け入れることに
メリットもあったのだろう、奨学生の寮とは思えないほどそこまで広くはないがいい感じの部屋だった。
3歳上の男達全てが逞しく見えた。体育大学を目指す人ばかりだからもちろんのことだけど、
朝夕の新聞を配って、予備校に行き、勉強・実技の講義を受ける。夜は折り込みチラシの準備をする。
一体いつ勉強するのか?
その寮に住むお兄さん達は、みんな不安を抱えながらも、精一杯自分の望む人生を獲得するために必死で
現実と戦っていた。ヘラヘラ・あはは・バカ言って〜!何て言いながら毎日をやり過ごしていったみたいだ。
兄を含めてその寮で暮らしていたほとんどの人が体育大学に進学して行った。
努力や苦労が報われるっていうのは何てすばらしいことだろうと思う。
新聞奨学生として予備校の負担を親にかけないという彼らの心は美しく、
そういう人たちが活躍する場が待っている当時のこの国もすばらしい時代だったと思う。
その寮には二日ほど泊めてもらい、ナベさんの指導もあり、何かしら自分の道は「これだ」と
思えるものがあった。
みんなと同じやり方は嫌だ、全然違うやり方を模索しながら当たり前の状態にしたい。
あ・・・この発想は今の仕事でも同じだった。全然変わっていないのだ。
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帰りの新幹線でのことは今でも良く覚えている。
私は少々感傷的になっていた。
「一体何を?」
一歩先に大人になっていく兄が、横浜という都会で、大人の世界で
新聞を配って自活し、さらに浪人をしながら次の春に大学に入学するために
必死になって努力している、さらに言えば厳しい現実に向かって歯を食いしばって頑張っている。
そういう現実を見た時に、その時の私はこう感じていた。
「俺はまだ全然頑張ってなんかいない。自己満足もいいとこ。初めから自分の望む環境なんてない。そこからどう変えていくかは自分次第。何も俺はやっていないんじゃないか。。」
愛知県へ向かう新幹線の中でずっとそんなことを考えていたら、涙がこぼれ落ちてきた。
私は左側の席で隣のおじさんに気づかれないように、外の景色を見ながらこぼれ落ちる涙をひたすら拭った。
ちょうどその頃、何かを察したかのように父がいきなり本を渡してきた。
高橋三千綱の『カムバック』という野球を題材とした短編集。
カムバックというぐらいだから、作中の主人公たちは皆不器用で、才能がありながらも監督やコーチに認められず、
ひたすら努力を愚直に積み重ねていた。
思春期の父親と息子なんて、ほとんど会話は無いものだ。
なぜその時父がその本を渡して来たか。
今なら分かる。。
父なりに苦しんでいた息子を案じていたのではないか。
そんな風に思う。
<ドラマよつづけ> 後半へ
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