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外村   茂一(とのむら しげかず)プロフィール

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■京都府宇治市に住む外村茂一さん(47歳)職業:画家

茨城県の農業高校を卒業後、青年海外協力隊員としてモルディブで農業を教えたり、帰国後は大阪市内で大衆演劇の裏方をしたりと職を転々としてきた。2012年に職業訓練学校でパソコンを使って絵を描いたのをきっかけに母の誕生日に贈ろうと水彩画に挑戦した「お母んと富士」が文部科学大臣賞を受賞する。人生に悩んだ時期があった外村さんの絵のテーマは「生きる」。人とのつながりや優しさが、発色豊かな絵画から伝わってくる作風だ。外村さんの次なる夢は・・・。若い世代にこそ読んでもらいたいインタビューになりました。

   image-3   代表作「お母んと富士」

■2013年から絵を描き始め、「お母んと富士」で文部科学大臣賞など受賞歴多数。

■絵画教室「リーティ」開講。リーティはモルディブ共和国の言葉で「美しい」を表す。

■夢を追いかける姿とほとばしる汗のきらめき、放つエネルギーを大胆かつ細やかに描いた代表作「Spark」。

■現在は海外協力隊の先輩で闘病の末に亡くなった女性をテーマに100号の作品に取りかかっている。

 

外村さんが絵を始めるきっかけになった40代以降のこと

稲石  40代以降のことですが、職業訓練学校に通って、Webデザインの勉強を始める訳ですけど

    何かきっかけがあったんですか?

外村  大阪で仕事をしていた時に、

    お世話になった人から声をかけてもらってライブカフェのようなものをしたいな、と思ってけど、結局その人と

    揉めて袂を分かってしまったんです。それで、ちょうどその頃に天王寺の職業訓練学校に受かっていたから、

    そちらに行くことにしました。HP(ホームページ)作るために、習いに行ってみようかというのがきっかけです。

稲石  そこからデジハリ※に行くことになったんですね。もうちょっとWebのこと勉強したいな、って。

    ※デジタルハリウッド大阪校 http://school.dhw.co.jp/school/osaka/

外村  そうそう。

稲石  そこでどんなことを学びましたか?

外村  そこで一番大きかったのは、Illustrator※(イラストレーター)で落書きしてて面白かったことですね。

    イラレの筆を使って遊んでいたらこれ画用紙で描いたら面白いんちゃうかな~と思って、学校の帰りに画用紙と

    クレパスを買って帰って、描き出しました。その学校に行かなかったら絵は描いてないと思います。

    ※Adobe社製のグラフィックソフト

稲石  少し戻りますが、それまでは本格的に絵は描いてなかったんですか?

外村  うん。

稲石  自分が描けると思ってなかった?全然?

外村  うん。普通の小学校で描いてたような風景画とか水彩画しか描けないと思っていた。

稲石  デジハリでは本来皆さんはWebやグラフィックデザインを学ぶところですから、

    HP作るためのプログラミング言語だとかWebデザインだとかの技術を身につけて就職する訳だと思いますけど

    外村さんは他の人達と全く違う観点で過ごしていた訳ですね。

   「紙に筆で絵を描いたら面白いんちゃうかな」と(笑

稲石  そこでは何かを見つけようと思っていた訳ですか?

    逆にたまたま興味のあるものが見つかったという感じですか?

外村  実は職業訓練学校で、さわりで絵を描き始めてて、デジハリに入った後も

    仲のいい友人には「絵描きになろうと思ってんねん」と入学して初っ端から言っていました(笑)

    でも、こんな絵でわなー、とか言ってたんですけどね。

   「自分に合ったものを見つけるのがこのデジハリの本当の目的なんです」と稲石君(聞き手)も言っていたけど、

    俺はやっぱり名刺とかのデザインしたいなぁと思っていたから、それを学びながら

    HTMLもすごい組むのが面白くて、紙媒体のデザインかHTMLを記述するコーダーのような仕事をしたいと

    漠然と思いました。

20161029_182147   当時を思い出す外村さん

 

デジハリ卒業後、絵を描き始めて人生が変わってきた

外村  その時にデジハリのチーフトレーナーに「年齢的にも就職するのは厳しそうだから独立したら」という

    アドバイスをいただいて、そんなことがきっかけで、絵をお母さんの誕生日に贈ろうと思いたって、

    誕生日プレゼントの為に描き始めたんです。

    デジハリを卒業して名刺を作って、日本各地を車で回ったんです。知り合いとかその辺で出会う人達にこれから

    HPとかデザインとかの仕事をやっていきますので、もしあればすぐに駆けつけますと言いながら名刺配って

    回っている時に、「お母んと富士」※で受賞させてもらいました。でもまだその時は絵でやっていこうとは思って

    なかったんですけど、その時審査員の先生が続けてみたら、と言って下さって。

    その後も、僕の会社Gabul design(ガブルデザイン)の方も続けながら、さらに国内を回って絵を描いていたら、

    今後は秋田県で賞を頂くことになりまして。

    母親には、もしこの2年間で3つ賞をもらうことができたら、絵でやっていくわ、と伝えていました。

    そうしたらホンマに2年間で3つ取ってしまって、それで今度は3年目にまた文部科学大臣賞を取ってしまって。

    それで完全にこっち(画家として)でやっていこうと思いましたね。

    でも、Gabul designも続けているんですけどね、授賞式の時もずっと名刺を配っていましたから(笑)

    ※2014「お母んと富士」で文部科学大臣賞

稲石  2年の間に3つの賞ですか~‼︎ 長年絵を描き続けている人にもそれだけ立て続けに受賞した人も

    いないんじゃないでしょうか?そういう風に言われたことありますか?

外村  はい。言われたことあります。あまり言いたくないことですけど、それで色々と嫌なこともされましたし、

    色々悪いことも言われています。

稲石  そうなんですか……。

    それでは、いい意味で評価してくれる人は何がいいと言ってくれましたか?

外村  こういう絵が描けるのは君しかいないから、これを続けなさい、と。

    秋田県の先生は、外村さんの絵の独特なタッチを見て、こういう表現ができるのは

    君しかいないから続けろよ、って言ってくださいました。

稲石  タッチは具象派というよりは抽象派ですかね、絵のことはよく分かりませんが抽象的でもしっかり

    スケッチされている感じですかね

    どうしてこういうタッチ・テイストになるんでしょうか?

外村  岡本太郎さんが言っていたんですが、俺はその考えが自分にすごくしっくりくるんです。

    最初にテーマが決まるとイメージが浮かんで、イメージが浮かんだら絵は80%完成してると。

    その描き方がすごく合っているから、この絵でいうと(鎮魂と希望※を見ながら)その時に現地で会った人達、

    全部別々の場所で会ったのですが。俺やったら東日本大震災をどう描くかな、と考えた時に鎮魂と希望を描こうと

    思っていて。東日本を回っている時の印象が、みんなあんなことがあった後やのにすごい笑顔で。。

    そういうのを見てきたから、笑顔があったら日本は力強く立ち上がっていけるなと思いました。

    僕はそれを表現したいと思って笑顔の人を描くことにしました。

    まず、そのテーマがあってイメージが湧いたのでこの絵が描けました。

%e9%8e%ae%e9%ad%82%e3%81%a8%e5%b8%8c%e6%9c%9b    「鎮魂と希望」

※絵参照、東日本大震災をテーマに描いた「鎮魂と希望」

    日本の風景である、米があって、鎮守の森があって、金色の鳥が飛んでいて、というこの

    「鎮魂と希望」の絵にはそれらのモチーフが散りばめられている。

    みんなを笑顔にできるような絵が描きたいと思っていました。

    やっぱりデジハリに行ってよかったのが、クリエイティブな考え方を身につけさせてもらった。

    それが大きかった。今でも当時の大阪校の責任者Kさんにお礼を言います。

    そこでスマートな考え方やスキルを学んだことで、無駄なものを省き削っていく今の作風につながった。

    それはデザインの考え方と一緒だと思います。

稲石  外村さんにとっては前述のデジハリで身につけたものが、絵に繋がり、本当にいい経験だったと。

外村  デジハリに行かなかったら、こういう感じのものは描けなかったと思います。

稲石  本質的な話ですが、これまで描いた外村さんの絵を見ていくと

    自分以外の誰かへの感謝・応援・励まし・震災に遭った方への鎮魂という想いを込めているように感じます。

    それは他者への想いが絵を描かせる動機になっているのでしょうか?

外村  好きな人を描きたいと思います。お世話になった人とか。それが一番の動機で、

    もし描きたい人がいたら、その人はどんなイメージなのかとかをどんどん想像して毎日想像の中で遊んで

    そのうちテーマが浮かんできて、絵に対するイメージが浮かんできたら描き始めます。

    あとはそのイメージを修正していくだけです。本当に描きたい人を描くのが動機です。

    なんでも写真に撮っておいて、そのイメージを使うの今やなという感じでハマった時にそれを使います。

    この「お母んと富士」でも完全にテーマ毎に切り分けて描いています。

    お母さんが桜の木に見立てて、富士山は女山やって聞いていたので

    全部細い線が血管というイメージで生命を宿すというテーマです。

    一つ一つのパーツそれぞれにテーマを決めていて、自分の好きな日本の風景は

    女性の愛なんやなと表現するために、桜の花びらをハート型にして

    母親とか女性の愛を表現した絵になっています。

絵に出会うまでの人生

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学生時代のこと

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稲石  10代20代の頃の夢は?

外村  酪農家になりたくて、農業高校に行っていました。

稲石  プロレスラーになりたいという夢があったそうですけど?

外村  空手習ってたけど、練習日が金曜日だったので、ワールドプロレスリングが見られなかったんです。

    ちょうどそのころは新日本プロレス全盛の頃でホーガンとか、だから全日しか見れなかった。

    ブロディ、ハンセン、ジャンボ鶴田のジャンピングニーパットとか見ながら、凄いなープロレスって。

    その頃、『1・2の三四郎』が出て来て、保父さんをしながら柔道家とか、すごいなっと思ってね、

    酪農家しながらプロレスラーになりたいなーと思ったりしました。

稲石  外村さんのキャラクターが出てますね。

外村  ありがとう。

稲石  どんな学生時代でしたか、エピソードなどはありますか?

外村  メンコが流行っていて、授業受けずにメンコやってるような自由な学生でした。

    定期テストの中間テストとかで、五教科で3年間ホンマに15点超えたことないからね(笑

稲石  ハハハハッ

外村  ハハハハッ

稲石  平均すると1科目3点以上取ってない、とか・・・

20161029_182121 14894542_877645275705153_1569192953_o 苦笑い

外村  ハハハハッ

稲石  パンチがきいていますね。

外村  ホンマに学校に遊びに行っている感じで、ほんとに学校は楽しかったなぁ。

稲石  なんか学校にいる時は楽しいけど、1人でいる時はこの先に対する不安とかなかった?内面的な葛藤とか?

外村  ホンマになかったなー、漫画『ドカベン』とか読んでたり、友達と遊びに行ったりするだけで日が過ぎて行って。

    それでも、農業学校に行く様になってちょっと変わってきたんです。

    学校で出会った先生に、それまで屁理屈ばっかりだったけど、「屁理屈じゃなくて理屈を言えっ」と

    言われてから変わったんです。

    大げさに言うと人生が変わった。それからは理屈で考えるようになってね。変な道じゃなくて、

    まともな道に進めるようになった。

稲石  先生にどんなふうに言われてました?

外村  わがままというか、自分の意見が通らないと、「ワーっと」屁理屈ばっかり言って相手に勝った気になって。。

    だから人を話す事でうなずかせるかということに長けていなかった。

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20代、青年海外協力隊へ

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稲石  20代の話ですが、青年海外協力隊になぜ行くことになったのですか?

外村  さっきの話の続きで、農業学校が受け入れ先になっていたんです。

   「理屈を言え」と言ってくれた先生が青年海外協力隊に行ってたんです。

    受けてみるだけ受けようと思って受けたら、受かってしまって、、

    でも海外協力隊始まって以来の英語15点っていう(笑

    そこでも15点・・・ハハハッ

稲石  ハハハハッ

外村  面談の時に言われたんやけど、駒ヶ根訓練所っていう場所があって、そこの所長が面接で

   「君、英語全然やけど、頑張れるね!」

   「はい、頑張れます」と。

    海外での任務内容については、中学生の時から養鶏所とかでずっとやってきた内容だったから、

    キャリアだけで取ってもらった感じで・・

稲石  普通は英語出来る人が応募してくる感じですか?

外村  普通はそうだと思うけど・・英語とそれぞれ各自が持っている技術、

    例えば保育であったり、家政であったり、日本語も日本語教師のレベルとか。

    でも、農業隊員はレベルがそれほどでもないから入れたんです。

    語学もそんなに関係なくて「like this , like this」ばっかり言ってなんとかしてました。

稲石  波乱続きで、なかなかスムーズに行きませんね、若い頃は!

外村  そうやね。

稲石  何年間行っていたんですか?

外村  3年

稲石  どこの国に行ったんですか?

外村  モルディブ共和国。

稲石  その後の外村さんをつくる、きっかけになったんですかね?

外村  そやね、みんな頭のいい人ばかりで、夜を徹して熱心仕事していたりしてて。

    そういうみんなの影響で、文学的な本も読んだりして、

                 それまではノストラダムスとか娯楽的な本が多かったけど、

    それからは遠藤周作とかそういうものを手に取るようになって。

稲石  20代後半は?

外村  モルディブに3年いて、その後タイに行きました。

    そこが自分の転換期だと思います。

    それまでの自分は、今では信じられないけど、人に対していつも愛想笑いで。

    付き合い方も、愛想笑いしていれば何とか上手く行っていたけど、モルディブにいる頃ぐらいから精神的に

    しんどくなってきて、日本にこのまま帰って、このまま生活したら駄目になるなと思っていました。

    タイに住んだのはたまたま旅行で行っただけですけど、タイに1年間住んでる時にどうやって日本に帰って

    生きていこうかと考えていたとき、

    チャオプラヤー川見てる時に、赤ちゃんが寄ってきて、笑ってるんだよね。

    その笑顔見て、あまりの屈託のない自然な笑顔だったから。

                 ああ自分が楽しいことやればこんな顔になれるかもな、と思ってね、

    それに気がついてからは、日本に帰っても大丈夫やな、と思いました。

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20代後半からの人生は、舞台の裏方~運送業へ

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稲石  1度整理しますと、青年海外協力隊から帰ってきてそのままタイに行ったんですね。

    日本で住むことなく。

外村  そうです。人生の悩みがあって、人との接し方みたいなのがタイで少し悩みが解決して。

    それから日本に帰ってきて、脚本家になろうと思って、シナリオセンターに通ったんです。

    でも、アルバイトだけでは食べていけないので困っていたら、新世界※に遊びに行った時に、

    大衆演劇場でスタッフ募集と出てたんです。

                そこで脚本描きながら裏方やったらええんやないかと思ってね、

    そしたら裏方にはまってしまて、結局脚本は辞めたんやけど・・・

※新世界は大阪の浪速区恵美須にある繁華街そこで大道具などの裏方を務める。

稲石  結構それが、脚本家の夢を忘れちゃうくらい合っていたと・・

外村  なかなか天職ってないな~と思ってたんやけど、これが天職やと思えるくらいね。

    舞台の設置とか自分で考えて、舞台道具とかも作って。

稲石  舞台美術も兼ねて?

外村  そう、規模がちっちゃいからね、大衆演劇の芝居小屋やから。

稲石  芸術には触れているけど、その時はまだ絵は描いてないんですね?

外村  絵描く人はもう一人のパートナーがやっていて、僕は大工方みたいな役割でずっとトンカチ持ってたんです。

    舞台道具も作っている感じで。

稲石  その生活はどれくらい続くんですか?

外村  嫁さんが、(29歳の頃所帯を持っていて)ケーキ作りを勉強してパティシエになりたいと言い出して、

    辻調理師専門学校に行くことになったから、状況的に芝居小屋の給料では食わしていけないから、その後、

    運送会社で働くようになりました。

稲石  奥さんが自分の夢を目指したい、というのが一つの転機になったのですね。

    20代は外村さんが自分のやりたいことを続けてきて、

    奥さんを養う為に、いわゆる食う為に仕事をするという人生になっていく訳ですね。

稲石  そこから30代ですが、その後はずっと運送会社で勤められたのですか?

外村  3年間は続けました。嫁さんが調理師学校を卒業するまでが3年でしたので。

稲石  葛藤はなかったですか?

外村  そういうのはなくて、そこでもまた勉強できた気がします。

稲石  具体的には?

外村  運送会社では幹部候補として入ったので管理業務も仕事でした。

    例えば、ドライバーってそれぞれがものすごくクセがあって、

    その人達がどうやってトラックに乗ってもらうかを考えないといけなかった。

    ドライバーの人達は、僕が今まで出会ってきた人達と違って荒々しいから、

    今までの人生では上からものを言ってたけど、そこでは下手下手に言うようになって、それこそ、

    腰を低くしていかないと世の中渡っていけないな、と。それを知ってすごくいい勉強になったと思いました。

稲石  トラックのドライバーとしてもやっていたんですか?

外村  はい。ドライバーとしてもやっていましたし、管理業務もやっていました。

    運送会社の仕事ではすごく悩みましたよ……人間的にも社会人としても、

    どうやって相手を気持ち良く仕事させるかを初めて学んだ仕事でした。

稲石  外村さん結構悩みますね?

外村  うん、結構悩むねん。

稲石  色々やって・・・色々悩みますね……

外村  うん、色々悩むねん。

 

外村さんの人生を変えた絵について

20161029_182140   絵について真剣に語る外村さん

 

稲石  外村さんにとって絵はどんな存在ですか?

外村  日々の刺激です。

稲石  それを形容すると?

外村  明日への活力っていうか、生きてるなっていう感じがする。

    今まで自分のやりたいことを見つけられずに43歳まで生きてきて、

               ようやく自分の居場所を見つけたっていう感じですかね。

                絵を描き始めて、5年目なんやけど、もう途中で投げ出したりできんなって思うんです。

    これまでの人生では何度かあったけど、今回は一人やし自分が折れない限り続けられる。

    それで、毎日絵のこと考えているのが楽しいし、描いてる時は辛い時もあるけど、

    ホンマに生きてる感じがしているんで、これを続けなあかんなと思っています。

    嫌やなと思ってもキャンパスの前に座って、ちょっとでも進めるように頑張ってます。

稲石  ようやく出会えたんですね。

外村  まあ、仕事っていうこともあるけど、割り切ってるから続けられる。全然食えてないけどね……

稲石  ちなみにこれからの夢は?

外村  小さい夢は、絵だけで食べていけるようになりたい。

    というのと、大きい夢は恥ずかしいですけど、、、ある人にしか言ってないけど、、、

    メトロポリタン美術館に1点でも常設展示してもらえるような絵を描きたい!!

稲石  すばらしい夢ですね。それがどれほどの難易度かは分かりませんが、

    簡単ではない、というのは分かります。おそらく。

外村  世界に出て行かないと、メトロポリタン美術館は拾ってもらえないので、一応世界に出て行くつもりで

    そのきっかけを掴むために模索して、、夢への途中みたいな感じやろね。で、まずは日本から。

稲石  いいですねー!!

    例えば、外村さんがバチッと惹かれるテーマに出会ったら、

                自分が燃え上がって、そこに行けそうな気がしますか?

外村  そやな~。唐突やけど、アメリカに行ってしまおうかと思ったこともありました。

    でも、この歳で絵を描くようになって良かったと思えるのは

    落ち着いて考えられるようになったから、勢いだけで動いたらアカンというのは分かってます。

                今までの教訓として。

    それやったら、日本でしっかり足場を作ってから飛び出してもいいかな、と。

    日本で確固たる地位を築いてから次のところへ行った方がいいとも思います。

稲石  大きい夢ですよね。。

外村  うん。山下清さんがゴッホについて言ったことがすごい印象に残っていて。

    「ゴッホは死んでから売れたからかわいそうや。僕は生きてる間に売れてよかった」と。

    でも、俺はできるんやったら生きてるうちにご飯が食べられるようになりたいと思います。

    一年に5枚くらいしか出来上がらないんやけど、それでもがむしゃらになって描いてます。

稲石  例えば、夢を目指す若い人に伝えることがあったら?

外村  そやね。紆余曲折してつまずいてもいいから立ち止まらずに、進んでください、と。シンプルですけど。

    社会と自分がどこで折り合いをつけるかだと思うけど、

    僕のことで言えば、職人になってたらそれはそれで良かっただろうし、

    運送会社勤務で良かったと思えばそのまま続けていただろうし。

    これまで自分を探して、自分の居場所だけをずっと探し続けていたから、ようやく見つかって。

    それで、なんか変な表現だけど、息が吸えるようになった気がします。

    だから若い子と話していても、

    「夢ってどうやって見つけたらいいんですか?」って言われるけど、

  「やりたいことやったらええやん‼︎って答えます。

    夢の見つけ方が分からん子が多いみたいで、、世間体を気にせずに、何でもやったらええやん‼︎って思います。

    ただ、その自分がしたいことのお金は自分で稼ぐのが大事やと思う。

    やりたいことがあるなら人をあてにせず、自分の力で。

    人を頼ったらそこで自分が止まってしまうと思うから。

稲石  若い子はちょっと頑張ったら結果が出ると思っている節がありますよね。

    ある意味バーチャル的な。やっても上手くいかないから、すぐに諦めちゃう。

                 で、あとちょっとの頑張りが続かない。

外村  時間をかけても、その分失うこともあると思うけど。。

稲石  外村さんの掲載されている新聞記事を見て、絵のテーマが「生きる」ということでしたけど、

    生きる上で、大事なことを教えてください。

外村  絵でいうと、「この人、生きてるなーっ」ていう人だけを描きます。逆にそういう人に惹かれます。

    だから、稲石くんも描きたいなーと思います。今、稲石くんを見て描きたくてしびれていますw

    それを言うと簡単に描けると思ってしまうから困るから、

    あんまり言わないけど、接していて、生きてるなって感じると描きたい。

    自分自身は生きることに消極的やから、相手になんで生きてるんやろな~とか、思います。

    そんなに生きることに執着がないねんな~。でも叶えたい夢もあるから矛盾してるんやけど。

稲石  人と関わることで、何かを感じるんですかね?

外村  関係ない話ですけど、絵画教室のリーティ※で送迎をやっていて、S君に会いたいなー、とか思いますけど。

    自分の答えがまだ出てないから、自分が生きる術の絵とかは見つかったけど、

    自分が生きるという根源が見つかってないからだと思うけど、何で生きてんねやろと、わからへん。

    考えるのは好きだから、例えば明日には生きるってこう言うことやろな、って見つかるかもしれないけど。

    今は分からない。

※リーティ:外村さんの運営している絵画教室のこと

稲石  普通はもう考えないですよね、30歳も過ぎてくると。

    そういう哲学的なテーマは10代から20代ぐらいで終わりますよね。

    そこが外村さんなんでしょうね。

稲石  生きるというキーワードで3つください。

外村  生きるのが分からへんと言ってる割には、あるんですけど(笑

    希望、仲間、夢、、少年ジャンプみたいやけど。

    そのために生きている。

    いい加減に喋っている時もあるけど、仲間は大事にしたいな、と。

    自分の夢も大事にしたいし、仲間の夢も大事にしたい。

稲石  外村さんは今、幸せですか?

外村  幸せ。俺、ずっと毎日幸せやで。

    ストレスあんまりないから。

稲石  それこそ絵を描くまでの人生は?

外村  そうやね~、10代とか20代前半とか、自分は愛想笑いしかしてなかった頃は

    どうやって生きて行ったらいいか分からなかった。

    それで海見てたら、入水したら楽になるかなー、とかそんなことばかり考えてたんですよ。

    子供の頃から家族関係が複雑だったからずっと辛かったけど、、

    やっぱり20代前半までは辛かったな。

    若い子に、「悩み~や」と言うんやけど。ホンマに俺も病院入らないとあかんぐらいに悩んでて、

    それでも悩み抜いた自分がいたから、30代40代の自分がある。

    すごい生きるための答えが、次々に見つかるから、今すごい楽に生きられる。

    辛い時もあるけど、後で楽するために、その時泥を飲んででも悩み続け、辛い思いをして欲しい。

    そして死ぬことを選ばない。

    今は悩みないですね。まあちょっと老化現象ぐらいですかね~(笑。

稲石  絵画教室リーティは、どうして始めようと思ったのですか?

外村  きっかけは3年前に「お母んと富士」で受賞させてもらった時に、

                 友達が子供に絵を教えてやってやと頼まれたけど、

    俺は、美術学校も出てないから自分でも描き方なんて分からない、だから3年間は待ってと言いました。

    3年経って、その友達に自分の我流だったら教えられるけど、どうするって聞きました。

    それでもいいよ、教室やろうって言ってくれたから、

    それで今教室やってる感じです。

稲石  その人がきっかけを作ってくれたんですね

外村  約束守るためにやってる感じ。

    リーティ始める時に自分の中では、こんな想いがあって。

    俺、農業高校の時に全寮制で、その時に知的障害の人も入ってくるんですよ。

    そこは文部省管轄じゃなくて農林水産省管轄だったからそういうところが緩かったけど、

    3年間そこで知的障害の人らと一緒に生活して、なんか障害者の人に対する意識がほぼなくて、

    逆に稲石君と付き合うみたいに付き合って、「鬼のように冷たい」って言われるぐらいなんです。

    でもそれがあるから、リーティには子供でも大人でも老人でも来ていただいて、

    障害持った人も一緒に絵を描いて、障害持った人への偏見とか意識を変えていって欲しいなと思います。

稲石  最後の質問ですけど、夢には期限があると思いますか?

外村  夢には期限ないすね。

    夢っていうのとは違うかもしれへんけど、絵、描き続けたいなって。

    で、続けて描いていて、その後全然違うことするかもしれないし、絵とは違うこととか。

    この先そういうものに出会うことがあるかもしれないと考えるとすごいワクワクします。

    だから、このまま描き続けたいし、生き続けたい。

    もっとワクワクすることを見つけるために。

稲石  外村さんにとってワクワクすることの一つが絵だと?

外村  そうですね。はい。今ホンマに。

    東日本大震災のことも、この前の熊本の地震のことも

    東日本大震災の時は何にもできなくて、自分の無力さを痛感していました。

    昔、モルディブも津波で襲われた時があって、その時も自分の無力さを痛感してて。

    それで、絵を描くことによって、地震で困った人達に、絵のチャリティ募金とかできるようになって。

    絵が自分に力を与えてくれると思っているから、その絵を描くことによって、

    自分でできることをどんどん増やしていきたいなって、思う。

    障害者についてのことも、何かできたらと思うし。絵っていう、ホンマにいいことに出会ったな、って。

                 思います。

自分らしい生き方を探して、若い頃は色々なことを経験して色々な人と関わって悩んで来た外村さん。若い人にも「たくさん悩んでもいいから、やりたいことやればええやん!」と語る外村さん。夢は諦めなかった人にだけ語りかける。何回でもやり直せばいい。【それでも人生はすばらしい!】ーーー外村さんのお話を聞いて、人生捨てたもんじゃないな、と思いました。

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外村 茂一(とのむら しげかず)プロフィール・連絡先情報

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◉絵画教室「リーティ」講師

メールアドレス:gabuldesign@gmail.com

HP-URL      : http:/tonomura-shigekazu-museum.jimdo.com/

主な受賞作

■2013年 第28回国民文化祭inやまなし富士吉田市「富士山絵画展」水彩画部門

     『お母んと富士』で文部科学大臣賞を受賞

■2014年 第29回国民文化祭あきた2014洋画部門(油絵・水彩画)

     『笑顔あふれる国-鎮魂と希望-』で奨励賞を受賞

■2015年 第40回記念、昭和美術会展において『Spark』で未来賞を受賞

     第30回国民文化祭inかごしま2015水彩画部門

     『春夏秋冬(心に山河は見えますか?)』で文部科学大臣賞を受賞

■2016年 平成29年度、第42回京都教職美術展のポスターデザインとして『春夏秋冬(心に山河は見えますか?)』

     正式採用

       第2回葛城発信アートFAIR2016作家部門で優秀賞を受賞

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